2024年4月5日金曜日

 

 この頃は俳句よりも源氏物語の方がメインになってしまっている。
 源氏物語の胡蝶巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 また、カクヨムの方でもこれまでの現代語訳源氏物語に分かり易いように登場人物に名前を付けてみたり、女房語りの雰囲気を出すために若干のフィクションを加えて見たりしている。

 源氏物語は最古のラブコメで、ハーレム展開だけでなく、曇らせ展開の元祖でもあるのではないのか。

 今年は染井吉野の咲くのが遅く、雨が多いので花見にもなかなか行けない。その中で四月二日には午前中秦野市蓑毛の淡墨桜を見に行って、午後は松田町寄(やどりき)の萱沼の枝垂桜を見に行った。途中、弘法山にも寄った。写真は淡墨桜。
 三日は一日雨だったが車で松田町のチェックメイト・カントリークラブという松田山の上にあるゴルフ場へ上る道を車で走ってみた。ここも桜並木が続いて花のトンネルのようになっている。
 四日は秦野の桜道とカルチャーパーク、水無川沿いを散歩した。染井吉野は五分咲き程度で、曇ってて途中雨も少し降った。
 今日も一日雨でどこへも行ってない。
 まあ、今年も染井吉野以外の桜はたくさん見た。
 土肥桜、熱海桜、河津桜、おかめ桜、玉縄桜、春めき桜。桜も多様性の時代だ。

 山を越え土肥か熱海か早桜
 島の浮く熱海穏やか早桜
 プレートは知らない家族花の幹
 桜咲く廃工場の追憶に

 桜以外の花もたくさん見た。

 柴犬のわけ入る土手よ水仙花
 蝋梅や閉じた月日の溶け始め
 蝋梅や琥珀は虫の眠れるを
 梅一輪一番星を見たような
 漆黒の中の光や雨の梅
 富士の白雲の白きや梅の白
 十郎やなべてこの世の花の兄
 太陽のたわわな枝やミモザの日
 金鉱か杉こもれ日のミツマタは

 俳句は俳句をやってる人にしかわからないっていう人がいるが、俳句をやってる人にしかわからない俳句は、所詮駄目な俳句だと思う。
 要するに、一般人に分らないような独りよがりの俳句しか作れない人の言い訳で、仲間内だけで固まって、互いに評価し合って、互いに句集を只配りし合って、そんなんで満足してるような俳人は、所詮仲間内でしかわからない俳句しか作れない。
 そういう閉鎖性を打ち破らないことには俳句に未来はない。
 そういうわけで、秦野市俳句協会のホームページの方もよろしく。

2024年3月20日水曜日

 

 また長いこと休んでしまった。
 一昨日は蓑毛のミツマタの群生地を見に行った。
 春めき桜も、しばらく寒い日が続いて遅くなったがようやく見頃になっている。
 現代語訳源氏物語の玉鬘巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 あと秦野市俳句協会のホームページも順次更新し、山麓427号のPDFもアップしてるのでよろしく。



2024年2月29日木曜日

  芭蕉さんの「句調はずんば舌頭に千囀(せんてん)せよ」という言葉は『去来抄』「同門評」の句の語順の問題を論じた文脈で登場する。
 ともすると「読書百遍意おのづから通ず」的な精神論にもなりがちだが、全く未知の言語ならいざしらず、辞書や文法知識や様々な情報があれば百回読まなくても、労力を節約することができる。
 近代の人だと、百囀なんて言われると、早口で何度も唱えて澱みなく発音できれば良いようなイメージがあるかもしれないが、むしろ句をできる限りゆっくり発声した方が良い。
 そして目の前で聞いてる人を想像すると良い。
上五を読んで、間を作って次に何が来るか期待させて、果たして聞いてる人は次に

 何を期待するか。
 次の中七で期待通りに盛り上がるか。
 最後の下五できちんと落ちが決まるか。

 それくらい計算しないといけないということで、無駄に百回唱えたところで何の意味もない。
 たとえば、

 うらやまし思い切るとき猫の恋 越人

の句も、元は「思い切るときうらやまし」で、これでは「ひがみたる」ということで直したという。
 意味的には、猫の恋(は)思い切る時うらやまし、だから

 猫の恋思い切る時うらやまし

 でも良さそうだし、口の中で何度も呟いても問題はなさそうだが、前に人がいて、ゆっくりと読み上げて聞かせることを想像してみると良い。尻つぼみな感じは否めないだろう。
 この句は、

 うらやまし
 えっ、何が羨ましいんや?

 思い切る時
 思い切るいうたら苦しいもんやろ、何でうらやましいんや?

 猫の恋
 あ、なるほど

と、この聞かせ方が大事。
 越人も流石に落ちを最初に言うなんてことはなかったが、あと一歩だった。
 「句調(ととの)はずんば舌頭に千囀せよ」というのはこういうこと。
 「調う」という言葉のこの使い方は、ねずっちの謎かけの「ととのいました」という時と同じ用法と考えても良い。

 猫の恋思い切る時うらやまし

は調ってない。
 こういう語順の整え方は其角さん(晋子)も上手い。

 切られたる夢は誠か蚤の跡 其角

 切られたる
 えっ、そりゃ大変やな

 夢
 何だ夢か

 はまことか
 えっ、ほんまに切られたん?

 蚤の跡
 あ、なるほど

 実際は百回囀(ツイット)しなくても、無詠唱でできればそれに越したことはない。
 「千囀(せんてん)」はしばしば「千転」と表記され、千回口の中で転がすことだと説明されることもある。確かに早稲田大学所蔵の文政期の写本には口篇はなくて、転になっているが、千回転がすでは意味が通らないので千回囀(さえず)るの間違いだろう。杜牧の詩に「夏鶯千囀弄薔薇」の用例がある。
 囀るという言葉は源氏物語玉鬘巻でも、大夫の監の言葉が訛りがひどくて意味がわからない様子を表すのにも用いられていて、鳥の囀りは無駄に長々と訴えることを揶揄するときにも用いられるが、囀りは本来繁殖期の求婚の声だからその意味でも玉鬘巻の用法は適切だ。囀りは相手に聞かせるもので、呟きではない。
 英語のツイットは辞書を見ると、なじる、あざける、しつこい批評または文句で困らせる、とか何かろくな意味はないが、実際ツイッターの実態を見るとなるほどと思う。Xになってだいぶ良くなった。ツイッターがXになった時に詠んだ句をもう一度。

 囀るなお前はもはや鳥じゃない

 それでは「雑談集」の続き。

 「山川といふ通称七年に及びぬれどもいまだ顔だに見合せぬに、志し他なく予が一癖をうつしければ尋常の反古も捨ず、はしりがき物しけり。彼花つみといふ集はやとひて清書なさしむ。又仮初に思いよりし句ともいかがなど問ひかはせば、古詩古歌の縁に叶へるも筆まめに引出ける。其力を強ひ此集にはげめかしといへば、勤めて閑かならず。それかやとより、我宿迄も心遥かにこそと折ふしの文緒は絶えずかしこといへる。同じく志シあり。

 凩よいつたたけども君が門     山川
   火燵へぐすと起臥の楽     角
 傘をかりて返さぬ雪はれて     渓石
   在所も近く薺うつなり     山川
 傀儡の肩にかけたるおぼろ月    かしこ
   馬にのせては狐うららく    仝

 鏡を形見といへる重高の歌にや。装束つくろひて鏡の間にむかへるに、

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉  実生 沾蓬」(雑談集)

 山川は寺村山川(てらむらさんせん)で、コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺村山川」の解説」に、

 「?-? 江戸時代前期の武士,俳人。
  伊勢(いせ)津藩士。榎本其角(きかく)(1661-1707)の門人。通称は弥右衛門。」

とある。七年来の弟子というから、天和の終わり頃からの弟子なのだろう。天和三年刊其角編の『虚栗』にその名はなく、貞享四年刊其角編の『続虚栗』には、

 草まくら薺うつ人時とはん     山川
 子の泣てしばし音やむ砧哉     同

の句が見られる。他に嵐雪編元禄三年刊『其袋』、其角編元禄三年刊『いつを昔』、路通編元禄四年刊『俳諧勧進牒』などにもコンスタントに入集している。
 其角の弟子として活躍していながら、「いまだ顔だに見合せぬ」という状態だったようだ。直接教えを受けなくても、其角の書いたものを何一つおろそかにせずに勉強したようだ。
 それが認められて、其角編元禄三年刊『華摘』の清書を務めることとなった。
 ここに記された表六句は特に『華摘』にあるものではない。
 発句。

 凩よいつたたけども君が門     山川

 君が門は其角門のことであろう。会いに行こうとするといつも留守で、なかなか会えなかったということだろうか。会いに行っても凩だけが吹いている。
 脇。

    凩よいつたたけども君が門
 火燵へぐすと起臥の楽       其角

 「ぐすと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「ぐすと」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘副〙 いいぐあいにすっかりはいったり、また、円滑に抜け離れたりするさまを表わす語。すっぽり。するり。
  ※名語記(1275)五「かしらや、又、さしいでたる物を、くすとひきいるなどいへる、くす如何」
  ※咄本・鹿の子餠(1772)比丘尼「菖蒲革染をぐすとぬぎかへ、ぬっと二階へあがり」

とある。発句を家の中にいて木枯らしが戸を叩くという意味に取って、寒い日は火燵に出たり入ったりと一人気楽に過ごす。

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

の句はもう少し後になる。去来の句は戸を叩く音がしても生返事するだけで出て行かないという「あるある」だが、ここでは起臥とあるから、木枯らしの戸を叩く音に、一応起き上がって確かめには行くのだろう。
 留守中に来たという知らせを聞いて、会えなくて残念だったという気持ちも暗に込められているのだろう。戸を叩いたなと思ったらもういなかった、という意味で。
 第三。

   火燵へぐすと起臥の楽
 傘をかりて返さぬ雪はれて     渓石

 第三は発句を離れて大きく展開する。傘は「からかさ」。旅の時に被る「笠」ではなく、柄のある傘を区別してそう呼んだ。
 雪が降ったので傘を借りて帰り、そのままだった傘を、雪が晴れたので返しに行く。
 四句目。

   傘をかりて返さぬ雪はれて
 在所も近く薺うつなり       山川

 再び山川の句となる。場面を田舎に転じ、雪の晴を正月の七草の頃とする。
 「精選版 日本国語大辞典 「薺打つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「陰暦正月七日の前夜から早朝にかけて、摘んできた春の七草を刻む。《季・新年》
  ※俳諧・青蘿発句集(1797)春「薺うつ遠音に引や山かづら」

とあり、七草叩きともいう。ナズナを刻む時にそのリズムに合わせて七草歌を歌うが、拍子が各々自分の叩く拍子なため、合ってなかったりする。

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
               光孝天皇(古今集)

の歌の縁で雪と薺は付け合い。
 五句目。

   在所も近く薺うつなり
 傀儡の肩にかけたるおぼろ月    かしこ

 傀儡はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「傀儡」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 人形の一種。歌などに合わせて踊らせるあやつり人形。かいらい。〔新訳華厳経音義私記(794)〕
  ② 「くぐつまわし(傀儡回)」の略。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ③ (くぐつまわしの女たちが今様などを歌い、売春もしたところから) 舞妓や遊女。あそびめ。くぐつめ。てくぐつ。
  ※殿暦‐長治元年(1104)七月七日「今日不二出行一、密々にくくつにうたうたはす」
  [語誌]→「くぐつ(裹)」の語誌」

とある。正月にはこうした芸人も回って来たりしてたのだろう。
 六句目。

   傀儡の肩にかけたるおぼろ月
 馬にのせては狐うららく      かしこ

 「かしこ」は合略仮名で表記されている。其角・嵐雪などの集に見られる名だ。二句続く。
 「うららく」は麗(うらら)の動詞化であろう。春の季語になる。狐は近代では冬の季語だが、この時代は無季。馬と狐は稲荷様(お狐様)の初午で縁がある。初午は旧暦二月の最初の午の日で、その縁日には傀儡師がやってきて興行したりしたのだろう。

2024年2月24日土曜日

 
 今日は雨も上がり、時折晴間も出たので、四十八瀬川から戸川公園を経て水無川の方まで散歩した。
 戸川公園の河津桜も満開で、梅もまだまだ満開の見頃だった。
 水無川沿いの道はおかめ桜が咲き始めていた。
 丹沢の山は雲がかかってたが、雪が残っていた。

 それでは「雑談集」の続き。

 「正木堂鳥跡はむかし遊女あまた持ちて栄えけり。かかるいとなみあるべきことにもおもはずとて、所を去りけれども、なましひに高尊の席をたたれ、遊人もしひて交りをゆるさずなりにければ、後するがの国にしれる人とひ行きけれども、たのもしからずものしければ、有りつらへる世中をとかくもてあつかへる心にやなりけん。凩の森なるかたはらの池に身を投げ侍るそのほとりに茶酌にたんざくを付けて、

 とめこかし茶酌の雫雪の跡     鳥跡

 今は十とせにも成りぬべし。心をとけたる一句のさまいやしき人果には生まれながら、たふとき道に身をまかせけるも讃仏乗の因なるべし。」(雑談集)

 正木堂鳥跡は遊女屋の主人、いわゆる「轡(くつわ)」だったのだろう。『虚栗』のら其角・千之両吟歌仙「偽レル」の巻十九句目に、

   松ある隣リ羽かひに行
 百千鳥轡が仕着せ綺羅やかに    其角

の句がある。(轡には下級遊女の轡女郎の意味もあるが、ここでは遊女屋の主人が遊女を綺麗に着飾らせるという意味。)
 この轡はネット上の今西一さんの『芸娼妓「解放令」に関する一考察』によると、穢多に準ずるものとして差別され、遊女町以外で家を構えることが禁止されてたという。
 正木堂鳥跡はこうした轡であるとともに俳諧風流の徒でもあった。延宝九年刊言水編『東日記』に、

 更にけふ田毎の月よ段目鑑     鳥跡

の句がある。
 ある時、「かかるいとなみあるべきことにもおもはず」と自らの商売を恥じて、足を洗おうとする。「所を去りけれども」というのは遊郭の外に出るということか。遊郭の外に住むことを禁じられた者が出たらどうなるかという話だ。
 「高尊の席」はよくわからない。出家してお寺に入るとかそういうことか。遊郭で遊んでいた人たちも現役時代には親しくしていた人たちだったのだろうけど、相手にしてくれなかった。
 駿河の知人を頼っても断られ、行くところがなくなって、ついに「池に身を投げ侍る」となった。
 茶杓に短冊を付け、そこに、

 とめこかし茶酌の雫雪の跡     鳥跡

の辞世を記した。
 なぜ茶杓なのか、一つの推測だが、竹細工など賤民の仕事だったことから、住む所もないまま竹を削って茶杓を作って売って、何とか食いつないでたということか。
 冬になると野宿は辛い。雪が降れば凍死する危険が大きい。そこでもはやこれまでと観念したのだろう。雪にあっては我が命も茶杓で掬える僅かな雫のようなもの。それが最後の言葉だった。
 「今は十とせにも成りぬべし」と元禄四年(一六九一年)から十年前の出来事だったようだ。一六八一年は延宝九年のことで、『東日記』の出た年でもある。多分其角の門人というわけでもなく、噂に聞く程度の人だったため、自ら助けてあげるということもなかったのだろう。
 罪深き職業から足を洗おうとしても決して報われることはないこうした厳しい身分社会の不条理に、せめて死後の仏の加護祈るだけだった。「讃仏乗の因」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「讚仏乗」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 仏語。一切の衆生をことごとく成仏させる一乗真実の教法を賛嘆すること。仏乗を賛嘆すること。
  ※とはずがたり(14C前)三「ありし文どもを返して、ほけきゃうをかきゐたるも、さんふつせうのえんとはおほせられざりしことの」 〔白居易‐香山寺白氏洛中集記〕」

とある。一切の衆生が成仏できるのなら、鳥跡も成仏できたことであろう。

2024年2月23日金曜日

 今日も雨。雪にはならなかった。
 それでは「雑談集」の続き。

 「加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに、年有りて重労の床にうち臥しければ、命のきはもおもひとりかたるに、父の十三回にあたりて、歌仙の俳諧を十三巻孝養にとて思ひ立ちけるを、人々とどめて息もさだまらず。
 此願のみちぬべき程には其身いかがあらんなど気づかひけるに、死すとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば、早や筆とるもかなはず成りにけるを、呼(カタイキ)になりても、猶ほやまず、八巻ことなく満足して、たれを我が肌にかけてこそさらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

 臨終正念と聞えけり。」

 加州一笑とあえて断らなくてはならないのは、尾張国津島にも一笑がいて、『阿羅野』でも加賀一笑、津島一笑と表記されていて、

 元日や明すましたるかすみ哉    一笑
 いそがしや野分の空に夜這星    同
 火とぼして幾日になりぬ冬椿    同

の三句が加賀一笑の句になる。その他時代は遡るが、芭蕉がまだ伊賀で宗房だった頃の伊賀にも一笑がいる。俳諧というのは本来人を笑わせるものだったから、破顔一笑ということで一笑の号を名乗る人があちこちにいたのかもしれない。
 (なお、底本としている『其角全集』大野洒竹編纂校訂、明治三十一年、博文館は「和州」と書き誤っている。早稲田大学図書館所蔵の『雑談集』を見ると「加」の文字のカの上に点があり、紛らわしい。)
 その一笑は芭蕉の『奥の細道』の旅の前年、元禄元年十二月に亡くなった。ただ、それ以前に、加賀へ来ることがあったら是非我が家に泊っていってくれと芭蕉にも伝えていて、其角もそのことを知っていたようだ。
 芭蕉は象潟で引き返すときに、もっと北へと、津軽や蝦夷も見て見たいという思いを我慢し、失意のまま北陸の海岸線の単調な道を猛暑の中、馬にも乗れずに歩き続け、その時は加賀まで行けば一笑に会えるということを心の支えとしていたのだろう。
 「重労」は早稲田大学図書館所蔵のを見ると「シウロウ」とルビがある。「労」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「労」の意味・読み・例文・類語」に、

 「⑥ =ろう(癆)」

とあり、精選版 日本国語大辞典 「癆」の意味・読み・例文・類語には、

 「① やせ衰えること。また、その病気。
  ② 薬物に中毒すること。薬物にかぶれること。また、その薬物の毒。〔説文解字‐七篇下・疒部〕
  ③ =ろうがい(労咳)〔改正増補和英語林集成(1886)〕」

とある。はっきりとはわからないが、ここでいう重労は重病ということでいいのだろう。
 その一笑はいつ死ぬともわからない状態にあって、父親の十三回忌供養のために、歌仙十三巻を奉納したという。
 十三巻満尾して、臨終の時の句が、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

だった。旧暦十二月の金沢は雪が降り、その美しい雪景色に、雪をもたらす雲もまた西方浄土からやって来るかのように見えたのだろう。

 「翌年の秋、翁も越の白根をはるかにへて丿松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし、

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    翁
 常住の蓮もありやあきの風     何處
 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州
 月すすきに魂あらば此あたり    牧童
 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口」

 そして翌年の七月十五日、芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢に辿り着く。そこで金沢の大勢の人たちに迎えられて、一笑の死も知らされる。芭蕉も旅の疲れが出るが、曾良も体調を崩して療養が必要になる。
 お盆明けの七月二十日には一泉の家でようやく俳諧興行をして、

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子     芭蕉

の発句を詠むが、これもお盆に備えていた瓜茄子のお下がりを頂きましょうという句であろう。
 七月二十二日に一笑の兄の丿松(べっしょう)のもとに願念寺で追善法要が営まれた。子の語句はその時の追善の句になる。

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    芭蕉

 『奥の細道』でも知られた有名な句で、説明も不要であろう。

 常住の蓮もありやあきの風     何處

 何処は大阪の上人でこの時金沢に来ていた。
 「常住」は仏教用語では過去現在未来変わることなく永遠に存在することを言い、無常の反対語になる。常住とはいわば仏であり、仏法でもある。秋風は季節の移ろいの無常を告げるけど、そこには仏様の台座の常住の蓮もあることでしょう、という意味であろう。

 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州

 乙州は近江大津の人だが、この時加賀に滞在していた。この句も説明は不要であろう。

 月すすきに魂あらば此あたり    牧童

 牧童は北枝の兄で、北枝の方は曾良が病気で先に帰ったあと、福井まで芭蕉を送っていった。
 薄はその姿から手招きするという意味があり、お盆に返ってきた一笑の魂も、まだこの辺りに留まっているのかな、ということか。月は真如の月の意味もあり、薄に招かれた魂は月の光で成仏する。

 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口

 雲口は金沢の人で、この追善法要の翌日には芭蕉を宮ノ越に誘っている。北枝・牧童・小春も同行しているが、曾良はまだ病気が治ってなかったようだ。
 「つれなし」に「啼く」を掛けて、蝉の鳴き声に我も釣られて啼くということか。蝉の抜け殻は、魂が抜けて天に飛び立つという意味で、死を象徴する。
 曾良は病気で追善法要に参加しなかったが、

 玉よそふ墓のかざしや竹の露    曾良

の句を奉納している。竹の露の玉を魂になぞらえて、墓の挿頭とする。神道家だけあって、仏教色がない。

2024年2月22日木曜日

  今日は一日雨。雲に隠れた山に雨に映える河津桜は紅一点を添えていて、梅の幹が黒ずんで見える中に梅の花もまた鮮やかに見える。
 あと、源氏物語の乙女巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは「雑談集」の続き。

 「去年にかはりて山のにぎはひ又更なり。

 小坊主や松にかくれて山ざくら  角
 香煎ふる素湯に桜の一重かな   普船
 くもる日は一日花に照れけり   挙白
 さそはれて花に嬉しく親の供   浮萍
 物見よりさくら投げこめ遊山幕  亀翁
 花の雨小袖惜うてかへるかや   水花」(雑談集)

 「去年にかはりて」とあるのは、前の段の「其弥生」の句が元禄三年で、これはその翌年の元禄四年の花見と見て良いのだろう。『雑談集』はこの年にまとめられ、翌年刊行された。
 小坊主の句は、この年元禄四年の七月に刊行された去来・凡兆編『猿蓑』にも、

   東叡山にあそぶ
 小坊主や松にかくれて山ざくら  其角

とある。
 この句は「山桜(に)小坊主も松に隠れてや」の倒置であろう。小坊主が何で隠れているのか、やや言いおおせぬ感じが其角らしい。ただ、江戸時代に寛永寺だ花見をした人なら、その情景がすぐに浮かび、「あるある」と思ったのだろう。
 推測だが、いつもなら境内を掃除したり、せわしく働いてる小坊主だが、この日は花見の人が多くて、表へ出てこず、桜の無い松の木の辺りで何やらやってる、というそんな情景ではないかと思う。

 香煎ふる素湯に桜の一重かな   普船

 「香煎」には「コガシ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「香煎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 麦や米をいって挽いて粉にしたこがしに、紫蘇(しそ)や蜜柑(みかん)の皮などの粉末を加えた香味を賞する香煎湯の原料をいう。こがし。
  ※狂歌・卜養狂歌集(1681頃)冬「或る人の許より、かうせんのおこしけるに、中に匙を入れておこし」
  ② =むぎこがし(麦焦)〔物類称呼(1775)〕
  ③ 茶事で、「こうせんゆ」をいう。寄付待合(よりつきまちあい)に人がそろった時、詰(つめ)(=末客)にあたる人、または亭主側から、のどをうるおすために出す。」

とあり、②の麦焦がしは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「麦焦」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 大麦を煎ってこがし、臼でひいて粉にしたもの。これに砂糖を混ぜ、水で練ったりして食べる。また、菓子の材料としても用いる。煎り麦。はったい。麦粉。香煎(こうせん)。麦香煎。《季・夏》
  ※俳諧・五色墨(1731)「麦こがし我も付木の穂に出て〈蓮之〉 御葛籠馬の通る暑き日〈宗瑞〉」

と夏のものになっている。ここでは①の方で、「香煎湯の原料」とあるように、粉状の「コガシ」を素湯に入れて飲んでいたのだろう。そこに一重の花びらが落ちる。一枚の花弁というよりは、鳥などが落とした五枚の花弁がついた一重の花ということだろう。

 くもる日は一日花に照れけり   挙白

 この日は花曇りで曇っていたのだろう。それでも花そのものの白い輝きに、あたかも日が照ってるようだ。

 さそはれて花に嬉しく親の供   浮萍

 浮萍についてはよくわからない。普船とともに元禄三年刊路通撰『俳諧勧進牒』にその名があり、

 出がはりのあいだやあそぶ花のとき 浮萍
   六阿弥道者のうちむれたる中に
 いくたびの彼岸にあふや珠数のつや 同
 雛の日や子よりもうばの高笑    同

の句がある。
 親と同伴したいきさつは分らないが、親思い、家族思いの人柄が感じられる。

 物見よりさくら投げこめ遊山幕  亀翁

は其角の弟子の中でもよく出てくる名前で、元禄七年の大阪への旅にも同行し、住吉大社で他の同行者と一緒に江戸に帰り、其角のみが死の前日の芭蕉のもとを訪ねることになる。『雑談集』にこのあと大山詣の一連の句があるが、この旅にも親子ともども参加している。
 名前は「翁」だが、元禄三年の『俳諧勧進牒』には「十四歳亀翁」とある。父も岩翁で其角の門人。
 「遊山幕」は花見の人の宴席を囲う幕のことであろう。「物見遊山」という言葉に掛けて、物見をするより、遊山幕に桜を投げ込め、とする。
 幕で囲ったんでは花がよく見えないじゃないか。花がなければただの物見だ。ならば、桜を折って遊山幕に投げ込んでやろう。まあ、そこは冗談で、本当に桜の枝を折ったりはしない、というところか。

 花の雨小袖惜うてかへるかや   水花

 水花はよくわからない。
 挙白は「くもる日は」と言ったが、そのうち雨になってしまったのだろう。せっかくの小袖が濡れるのが惜しくて帰るのか、という意味だが、「かや」はこの場合反語に取った方が風流だ。

 「嵐蘭が母は田中宗夫と云ひし人の孫にて、かの宗夫の武功をよく知りて語り申されけり。
 和州誉田の田夫にてはじめ中間より後ち松倉豊後守の家老となり侍る。
 されば子孫に伝えて語りけるに士は畳の上にてむまれ田の畦にて死すべしと、これを家訓として心ざしをかかす懐旧、

 死なば爰秕穂に出る小田の霜   嵐蘭」(雑談集)

 嵐蘭が鎌倉から帰る途中に客死したのは元禄六年八月二十七日だから、その運命はまだ知る由もない。
 嵐蘭の死に際して芭蕉は『嵐蘭ノ誄』を書き記し、許六編の『風俗文選』に収録されている。
 母に関しても、

 「此三とせばかり、官を辞して、岩洞に先賢の跡をしたふといへども、老母を荷なひ、稚子をほだしとして、いまだ世渡にただよふ。」

と嵐蘭が老母を養っていて、

 「七十の母に先だち、七歳の稚子におもひを残す。」

この母のことを気遣うほど、嵐蘭の母親思いは門人の誰しも知る所だったのだろう。

2024年2月20日火曜日

 
 今日はおおいゆめの里の河津桜を見に行った。
 花は満開で、一部はもう散り始めていた。この前は五分咲きと聞いて、いつか見に行こうと思ってたが、土日は混むからと後回しにして、昨日は雨で今日は何とか花の盛りに間に合った。
 富士山は雲がかかって、なかなか全体の姿を現さなかったが、霞と雲の合間に何とか見ることができた。
 花見の人も多く、平日とは思えない賑わいだった。

 それでは「雑談集」の続き。

 「あすは桃のはじめに人心うつろひ安からんも覚つかなしと、上野の桜みにまかりしに、門主例ならず聞えさせ給へば、山の気色いと閑なるに花もうれふるにやと心うごかす。霞の底もしめやかに鳥の声定まらざりし。日比にかはることいたづらになせそと、亦とがむる人をも心つかひせしかば、興なくかへりぬべきに成て、風雲の私にひかれ、大師の御座清水の糸ざくらなど、只おぼかたに詠みけるに、彼さくらの木に添て、舞台の右の方に鐘かけたり。片枝はさながら鐘をきくばかりにほころびたれば、

 鐘かけてしかも盛りのさくら哉  角」

 「桃のはじめ」は後でこの日が弥生の二日なのがわかるから、三月三日の桃の節句のことであろう。この日は海に潮干狩りに行き、獲れた海産物をお供えする。延宝の頃の芭蕉の句に、

 竜宮もけふの鹽路や土用干し   桃青

の句がある。
 せっかく桜の季節だというのに、移ろいやすい江戸っ子の心はすっかり潮干狩りムードで、それならと、其角は上野寛永寺の桜を見に行く。花見の名所だった。
 寛永寺の門主の所を訪ねて行ったのだろう。この日は人も少なく上野山は静かで、「花もうれふる」というくらい寂しかった。
 晩春の霞の中に鳥の声もはっきりとは聞こえない。今までとうって変わった景色だし、門主からも何やらお咎めがあったのか、すっかり興も醒めてしまった。
 だったらと「風雲の私にひかれ」というのは、ちょっと別の所を散歩してみようくらいのことか。風雲といっても旅というほどのものでもあるまい。
 「大師の御座清水の糸ざくら」は上野山を西側に降りた不忍の池の北側にある谷中清水稲荷社のことだろうか。弘法大師が掘り当てた清水の伝説がある。
 この糸桜(枝垂桜)の木の横に鐘が掛けてあった。半鐘か何かだろうか。「片枝はさながら鐘をきくばかりにほころびたれば」とあり、この糸桜も綺麗に咲いていたのだろう。

 鐘かけてしかも盛りのさくら哉  其角

ということになる。

 「入相と聞えしほどに門主も薨御のよしをふれて、鳴り物とどめさせ給へば、悲き哉やかるる日かかる時ありて、かくは世をさとしめ給ふことよと仏身非情草木にいたる迄、さてのみこそは侍りけれど愁眉沙汰する事をおもひて、

 其弥生その二日ぞや山ざくら   角」

 夕方の入相の鐘の頃になって再び寛永寺に戻って来たのだろう。ここでお寺が静かだった原因が薨御(こうぎょ)にあったことを知らされる。
 薨御はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「薨御」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 親王、女院、摂政、関白、大臣などの死去すること。
  ※太平記(14C後)一三「兵部卿宮薨御(コウキョ)事」

とある。
 ウィキペディアを見ると寛永寺の項に、

 歴代寛永寺貫首(輪王寺宮)
  1.天海
  2.公海
  3.守澄法親王(第179世天台座主。輪王寺宮門跡の始まり。後水尾天皇第3皇子)
  4.天真法親王(後西天皇第5皇子)

とある。この4の天真法親王はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天真法親王」の解説」に、

 「1664-1690 江戸時代前期,後西(ごさい)天皇の第5皇子。
  寛文4年7月28日生まれ。母は清閑寺共子。延宝元年得度。8年東叡山(とうえいざん)輪王寺貫主となる。日光の大火のおり被災した住民に食料をほどこしたという。元禄(げんろく)3年3月1日死去。27歳。俗名は幸智。幼称は益宮(ますのみや)。法名ははじめ守全。法号は解脱院。」

とある。元禄三年三月一日死去とあるから、其角が上野に花見に行ったのはおそらくその翌日であろう。
 なお、この句は『五元集』には、

   辛未の春上野にあそべる日
   門主薨御のよしをふれて世上一時に
   愁眉ひそめしかば
 其弥生その二日ぞや山ざくら

とある。
 辛未は元禄四年で『雑談集』の成立した年とされていて、巻末に「元禄辛未歳内立春日筆納往而堂燈下」とある。つまり元禄四年の師走に書き上げられたことになる。西暦では年が改まって一六九二年になる。
 そうなると、この辛未の春は元禄四年の春(一六九一年)ということになり、この時に皇族関係で亡くなった人がいたかということになるが、『五元集』が後に編纂されたことを考えるなら、元禄三年庚午の間違いと見て良いのではないかと思う。
 愁眉沙汰するの愁眉はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「愁眉」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 心中の悲しみや心配が表われた、しかめたまゆ。悲しみや心配のありそうな顔つき。
  ※傀儡子記(1087‐1111頃)「女則為二愁眉啼一、粧二折腰歩齲歯咲一」
  ※新撰朗詠(12C前)下「縦ひ酔へる面の、桃競ふこと無くとも暫く愁眉の柳与開くること有り〈慶滋保胤〉」 〔後漢書‐五行志〕」

とある。桜が今を盛りと咲き誇っているのに、今日は悲しんで顔をしかめるべき日ということで、

 其弥生その二日ぞや山ざくら   其角

の句を追悼に捧げることとなった。